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グレート・ギャツビーはイケメンなのか?

村上春樹イチオシ!

2013年に、「タイタニック」で有名なレオナルド・ディカプリオ主演の映画「華麗なるギャツビー」が公開されました。

【華麗なるギャッビー】

この映画の原作であるグレート・ギャツビーという作品は、アメリカの作家スコット・フィッツジェラルド(1896-1940)の代表作です。分厚くはありませんが長編小説の部類に入るでしょう。

毎年ノーベル文学賞に名前が挙がる作家村上春樹が、大のフィッツジェラルドファンとして有名です。「スコット・フィッツジェラルド・ブック」という本を1988年に上梓していますし、その中でも、「いつか、グレート・ギャツビーを自分の手で翻訳したい」と語っています。

その宿願は、2006年に果たされました♪

【グレート・ギャツビー:スコット・フィッツジェラルド:村上春樹訳】

「いまどきのIT社長」のようだった(?)フィッツジェラルドの生活

グレート・ギャツビーで描かれる世界は、とても華やかです。

ときは1920年代のアメリカ。ウィキペディアなどでは「ジャズ・エイジ」という言葉で説明されていますが、どうにも、単純に景気がよくてみんなが元気、というような社会ではないようです。

現代日本でいうところの「メディアで取り上げられるIT企業の社長」のような人たち、と言ってしまって語弊がないものか自信はありませんが、一部のお金を持った人々が、そのお金の使い方で話題を振りまく、というような。どこか享楽的、破滅的な香り漂う雰囲気です。

作者フィッツジェラルド自身も、魅力的かつ破天荒な女性ゼルダを妻とし、「紙幣をマッチ代わりにしてたばこを吸う」みたいな生活を送ったようです。とにもかくにも「売れっ子作家」で、印税がたくさん入ってくる。それをゼルダが浪費してすってんてんになってしまう。また作品を書いて印税が。。というようなことを繰り返していたのだとか。

毎週末パーティーを開く!

「グレート・ギャツビー」「華麗なるギャッツビー」どちらも日本語訳の違いでしかありません。

ギャツビーという若者がいて、ものすごくお金を持っていて、毎週末その大きなお屋敷で盛大なパーティーを開いている。というのが物語の背景です。

作中一人称の「僕」を名乗る主人公(語り手)は、ニックという若者ですが、ただの傍観者です。村上春樹作品で描かれる、常に冷静で飄々とした主人公そのものと言えます。

一方、ギャツビーのような人物は、…村上春樹作品は私、たぶん半分は読んでいないのですが、「ダンス・ダンス・ダンス」に出てくる五反田とか、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の赤松といった人物に影響が見えるかどうか。。意図的にか、あんまり書かれていないタイプかもしれません。

ギャツビーは、もちろん女性にモテます。そしてもちろん、多くの人の恨み、妬み、嫉みを買ってもいます。

物語のあらすじ

この記事のテーマは、「ギャツビーはイケメンなのか?」ですので、作品のあらすじについては、ネタバレを恐れず簡単に書いてしまいたいとおもいます。

 

まず、毎週パーティーを主催しているギャツビーですが、お目当ての女性がいまして、その人は物語の語り手ニックの従姉妹デイジーです。既に人妻です。

…若い軍隊時代に、ギャツビーはデイジーにプロポーズをするも、「お金持ちの家の娘は、貧乏な男の人とは一緒にはなれないの」と言われフラレてしまった過去があります。

それを見返すべくギャツビーは、まっとうではない仕事にも手を染め巨万の富を築き、再びデイジーの愛を勝ち取るためにパーティーという「餌」を撒いたというわけです。

デイジーの心は家柄はよいものの粗暴な夫から、次第にギャツビーに移っていきますが、デイジーが運転するギャツビーのクルマが人を轢き殺してしまい、ギャツビーはすべての罪を飲み込み自宅のプールで自殺します。

ギャツビーのお葬式は生前の華々しさに反してものすごく寂しいもので、一切を仕切ったニックは世の中が信じられなくなります。

…デイジーは崩れかかった夫との関係を修復し、殺人という罪に向き合うこともせず、ギャツビーへの気持ちもなかったもののように、一家でその地を離れます。

 

ちなみに私は、日本語訳でしかこの作品を読んでおりません。村上春樹曰く「この本は、単に英語が読めるといったレベルではだめで、もっともっと深い英語の読解力を持って読むことで、はじめてその価値が分かる」のだそうです。

ギャツビーはイケメンか?

本作品は、過去に2度映画化されているそうで、ディカプリオ版はいわゆる「リメイク」に位置づけられます。

…タイタニックで、「見た目はそんなにかっこよくはないけど無類のイケメン!」だったディカプリオがギャツビーを演じた理由は、なんとなく分かる気がします。男性として説得力のある魅力は、絶対に必要なんですが、ただの見てくれイケメンを持ってきてしまうと、ちょっと違うのですね。。

 

私はグレート・ギャツビーの日本語訳を、10回くらいは読み返しているとおもいます。

最初の印象はたしか、「ニックってギャツビーに利用されたのね~」という感じのもので、私の目にギャツビーは目的のためには手段を選ばない強欲な男に映りました。ギャツビーのような人物は確かに「グレート」だけれども、ニックはもうこういう人とは関わりたくないのだろうな。。そういう読後感でした。

何度も読ませる力が、この作品にはあると思います。繰り返し読むうち次第に作品冒頭のニックの独白が、「村上春樹作品的主人公」の冷めた感じではなく、世間に対する怒りと、ギャツビーに対する深い思いと諦念にしか読めなくなってきたことが、どうにも不思議です。

 

「グレート・ギャツビー」「華麗なるギャツビー」「偉大なるギャツビー」いろんな訳し方がされていますが、どれが一番しっくりとくるのか?ではなくって、ことニックという物語の語り手から見て、ギャツビーという人物の「生き様」が、「グレート」だったのだろうな。。そうおもいます。

…「死に様」に関しては、正直に申し上げまして私は、単純に憐憫をしか誘われないです。。でもこれもまた、何度か読み返すうちに、この作品からしか得られない感情を味わえるのかな?と楽しみにしてもいます♪

これからも私の中でギャツビーは、どんどんイケメンになっていくはずです。

 

【グレート・ギャツビー:スコット・フィッツジェラルド:野崎孝訳】

私の愛読版は、実は上記の村上春樹訳版ではなく、新潮文庫から出ているこちらです。。

完全に好みだとはおもうのですが、村上春樹訳版がどうにも最後まで読み通すことができないのは、村上作品特有の軽妙さが感じられなくって、「ものすごく気合が入っている!」かんじがぷんぷんするからでしょうか。。

逆にいうとそれくらい、1957年に訳出されたこちらの作品の文体は、私たちの知る村上作品に印象がちかいです。

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