キューブリックが「最も恐ろしい映画」と評したサイコ・サスペンス
昨年(2019年)春に、表記の謳い文句で日本でも「解禁」された作品ですが、興味を抱きつつも映画館に足を運ぶことができませんでした。
先日たまたまアマゾンプライムで検索したところ、有料ではあるもののレンタルができるということで、自宅で視聴いたしました。
【ザ・バニシング】
1988年公開の本作は、当時日本では劇場での上映はされなかったようです。すぐさまハリウッド版が作製され、そちらは「ごくごく普通に」観ることができます。
映画とは不思議なもので、たとえば「千と千尋の神隠し」が、もう20年も前の作品だということを、当時の熱狂を知る世代の人は、にわかに信じがたくはありませんでしょうか?
モノクロ映画はさすがに「時代」を感じますが、完全消費型である昨今のハリウッド作品以外の「名画」は、比較的容易に時代を超え、なかなか古臭くなりません。
大切なことは「世界観」なのかな?と感じます。我が国の小説を読んでいるととくに強く思うのですが、たとえば江戸川乱歩作品は、今読んでもどっぷりとその世界に浸かることができます。
…個人的な感想でしかないのですが、「古臭く感じる」代表例は、芥川龍之介作品に求められるかと、考えています。
このふたつの違いは「世界観」を、「荒唐無稽なフィクション」としてしっかり作り込んでいるか?それとも「私小説として世界観は作者の生きた時代に委ね、主人公は作者自身」として、それらを前提とした上で、「瑞々しい感性」で言葉を紡ぐか?にあるのではないかと。
文庫本で芥川作品を書店で手に取れば、いかに多くの注がつけられ、それなしには当時の「技術・生活水準」や「常識」が理解困難であることがよく分かります。
文学とは異なり映画は、言葉だけでは成り立ちませんし、ひとりだけで創り上げることも、ほぼほぼ不可能ですので、そこには大なり小なりの「世界」が成り立ちます。作品に優劣はあっても、世界に優劣はなく、それぞれは別個に存在するものです。
ネタバレ直前までの「ザ・バニシング」の感想
本映画を評する多くの方は「サイコパス」の存在を、この物語の中に見ます。一旦そう形容してしまえば、類似の作品、よりあとの時代の名作は、いくつも挙げられるとおもいます。
たとえば「羊たちの沈黙の方が恐い」という意見も散見されるようです。
わたし個人の感想で言いますと、「羊たちの沈黙よりも恐かった」です。
そして、本作に一番似た印象を抱いた作品は、アニメのエヴァンゲリオンかな?と思います。
以下、簡潔にネタバレします(白字で記述しますので、ご視聴予定の方は本章をスキップしてください)
本作は犯人と思しき男が、妻を探し続ける夫に対し、自分という人間の特性、そして事件のあらましを淡々と語っていくスタイルを採っていますが、「真実を知りたいだろう?」と主人公と視聴者の関心を誘いつつ、最後にどちらにもその答えを提供しないところが恐いです。
犯人に従って睡眠薬を飲んだ夫は、土の中に埋められる途中で目を覚まします。ライターの明かりで狭い棺桶の中を照らしますが、妻の痕跡がそこにあるわけでもないところが、絶望の極地です。
つまりこの作品の犯人、もとい作品そもそのに、「誠実さがゼロ」なのです。本当にゼロです。
わたしにとってのエヴァンゲリオン
有名な作品ではありますが、アニメですので、内容をご存じない方も多いかと思いますので、なんとか、作品の知識に依らないかたちで、エヴァンゲリオンがわたしにとって「無意味な作品」である理由をお伝えします。
エヴァンゲリオンは、いくつもの「謎」を残したまま、弐拾六話におよぶTVシリーズは完結し、「本当に描きたかった26話目と27話目」として、劇場版「まごころを君に」が作られました。
…ですが、それによって昨今の言い回しを使うならば「伏線の回収」がすべて行われたわけではなく、かといってそれが先延ばしされたのかというと、そういうわけでもありませんでした。
TVシリーズも映画も、ともに映像ソフト化されてから触れ、文字通りハマったわたしですが、消化不良感をなんとかすべく、ネットで情報を必死に漁ったわたしは、スタッフのこんな言葉に出会います。
- 映画によって、謎の8割は明らかにできたと考えている
「あ、そうなんだ」
と、わたしは合点がいきました。
「作品中に散りばめられた謎は、シナリオを書いた時点で『答え』なんて用意されていなかったのだ」
「一部の謎は結局謎のまま残され、ただの『矛盾』となった」
「エヴァンゲリオンという作品は好きだけれどもこの物語世界は、意味の見いだせないただの『ナンセンス』なのだ」
それが、わたしのエヴァンゲリオンという作品の最終的な感想であり、それ以降に作られた新作「ヱヴァンゲリヲン」および本作の監督さんの作品については、なんの関心も抱かなくなりました。
謎に対する責任を放棄するという行為は、信頼の問題です。「興味深いストーリーだけど、この人きっと、結末は放棄するよ」とバレてしまったら、誰がその作品に「付き合う」でしょうか?自分の人生の時間を使って。
サイコパスとの付き合い方
ここから先は、これからの時代のわたしたちの生き方に関わる問題です。「ナンセンス作品」には、関心を持たず、それに触れなければよいだけです。
ですが、語弊はあるでしょうが「ナンセンス人格」としてのサイコパスは、それと関わらざるを得ないケースを避けえないかと思います。
その答えを、わたしが持っているはずもないのですけれども、ひとつだけ人生を通して守っていきことが、あります。それは、
「言動に矛盾のある人に共感はしない」
ということです。人は誰でも、矛盾を抱えた生き物です。でも、その「自己矛盾」が「葛藤」となり、自己完結性を周囲に示そうと努力することが、その人の「人間性」を醸成し、信頼に繋がるとわたしは信じています。
そして、忘れがちなのですが、自己完結性を意に介さない人物、そして作品は、そうそう珍しい存在ではありません。
心霊写真は、「人間に見えそうなものを、人間と見做そうとする」人の本能が生み出します。
同様に人は物語に対して、フィクション・ノンフィクションを問わず「作者の死を例外として、必ず結末が与えられる」ことを期待します。いずれも信頼です。
自分の中に生じる「信頼」をコントロールする力を、磨いてゆかねばならない時代が、おそらくやってきてしまったのです。。