最期の映画を観ました
先日アレハンドロ・ホドロフスキー監督の最新作、エンドレス・ポエトリーを観ました。
23年ぶりの新作映画ということで注目を集めた前作、リアリティのダンス(2013年)の公開後にクラウドファウンディングで資金を募り、2016年に完成した作品です。
この映画の完成時点で、監督は86歳。その後も精力的に作品(漫画原作者、タロットの専門家としても著名)を発表していますが、おそらく、映画としてはこのエンドレス・ポエトリーが、ホドロフスキー監督の遺作となるのではないでしょうか。
…もちろん、次回作も期待はしています。ただ、リアリティのダンスと比べてもこちらエンドレス・ポエトリーには、監督の観衆(ご本人の言葉では「戦士」(Warrier)。芸術を愛する者は、戦士なのだそうです)に向けてのダイレクトなメッセージが強くて、その対比はちょうど、40年前のエル・トポとホーリー・マウンテンの関係に似ています。
作中のホドロフスキー青年が問います。
「生きることに、一体何の意味があるの?」
どこからともなく現れた監督が、過去の自分を背後から優しく包み、一瞬の間を置いて答えます。
「頭はその問いを発するが、心では分かっている。生きろ!生きろ!生きろ!」
どう考えてもどれもこれを超えられない「エル・トポ」
アレハンドロ・ホドロフスキー監督の名声は、1970年の作品「エル・トポ」と共にあると言えます。
ネットを見ても、称賛・絶賛の声がある一方で、「最低」「気持ち悪い」と評価は真っ二つに分かれ、意味不明です。興味を持ちつつ視聴を躊躇される方も多いことでしょう。
監督に言わせれば、「戦士よ!戦え!(観ろ!)」と背中を押されるだけでしょうが、私自身、映画を観てこんなに唖然とした体験は過去にありませんし、「なんなの?これ!」という想いは未だに持ち続けています。
たとえば「芸術映画」といえば真っ先に名前が上がるアンドレイ・タルコフスキー作品の場合、称賛のコメントのアンチテーゼは「退屈」「難しすぎてわからない」なので、「難しいんだ〜。観るのやめようかな?」とか、比較的冷静な対応が取りやすいです。
…ところがエル・トポの場合これが、「大好き」か「大嫌い」のどちらかで、無関心という立場を貫くことが極めて難しいというところに問題があります。監督曰く、「エル・トポに限界があれば、君にも限界はある。エル・トポに限界がなければ、君にも限界はない」のだそうです。
さて、どういたしましょう。。
以下、エル・トポのネタバレをします
まず、この映画はとてもグロテスクです。私も最初、何度も停止ボタンを押そうとしました。(レンタル屋さんで借りてきて自室で鑑賞)
…ただ、他のエログロな映画となにかが違ったのは、今思えば、ですが、エル・トポ(主人公:兼監督、兼音楽監督、兼その他全部)のそれら残酷無比なシーンに対する反応でしょうか。
現代ではサイコパスと呼んでよいものか?残酷なものに対して嫌悪感を示さず、むしろ異常に執着する人格やキャラクターも珍しくありません。でもエル・トポは血の池に浸った村を訪れたとき、教会のドアを開けそこに無数にぶら下がった遺体を見つけたとき、冷静ではありつつもその表情には、「正常な」驚きと怒りが見て取れます。
村の中でただ一人生き残り、そして間もなく息絶えようとしている老人の「後生だ。殺してほしい」という願いを叶えるべく、自身の7歳の息子(全裸!実子!)に拳銃を渡します。
エル・トポは、至極まっとうな感性を持ちながら、とち狂った行動を取る人物です。
ですので、スプラッターやホラー映画を観たときのような、「この監督さん、狂っている…」という、それがスクリーンの向こう側の世界であるが故の安堵を伴ったストレスの発散とは、異質です。
ホドロフスキー監督は、人が目を背けたくなるような事柄に対して、一度目を背けた上で改めて正視することで、自身の作品を成り立たせている。そうおもいます。
復讐と堕落
エル・トポはヒーローですので、村人の復讐はしっかりと成し遂げます。そして囚われていた美女にかどわかされ、息子を捨てます。
敵のボスを無類の強さで倒したあと、ボスに「あんたは何者だ?」と問われ、「俺は神だ!」と答えてしまうところ。そしてちゃんと色欲に負けてしまうあたり。ほんとうに至極まっとうだと思います。。
男性は女性に育てられるといいますが、アゲマンということなのか?その後この美女は「この砂漠にいる4人の達人(以下、マスター)を倒し、あなたが最強であることを証明してみせて」と、エル・トポをけしかけます。もちろんエル・トポは、素直にこの4人に挑みます。
「奴は俺よりも強い」
このセリフは、1人目のマスターに決闘を申し込み、「では勝負は翌朝。恐れるな。死は怖くはない」とか慰められたエル・トポが吐いた弱音です。
欺くことを知る
映画の序盤では「俺は神だ」などと、お調子に乗っていたエル・トポですが、上には上がいることを悟ってしまいます。ですがエル・トポはまっとうな人間であって聖人ではないので、聖人然と高潔なマスターたちを、3人まで騙し討ちで倒します。
…ところが、最後の4人目です。「ワシに勝っても、何も得るものはないぞ」と諭されるも「あんたの命をもらう!」と答えるエル・トポに、マスターはその場で自害して見せます。「意味などない」と言い遺して。
困りますよね。最強を目指して階段を上り詰めたと思ったら、最後の相手には戦いもせぬまま自殺されてしまった。。
ここに至り、まっとうな人間エル・トポの精神は、分かりやすく崩壊します。美女に裏切られたり、何発も銃弾を浴びたりと色々あって、身体障害者(以下、フリークス)の方たちの住む洞窟で20年間、仏像みたいに神様扱いをされたのち、意識を取り戻します。
村から厄介者扱いされている彼らの事情を知り、剃髪し、「お金を稼ぎ、トンネルを掘って洞窟と街を安全に行き来できるようにする」と宣言したエル・トポは、小人症の女性を伴い街へと降りていきます。
後編
有名なお話ですが、エル・トポという作品は、前半は西部劇で後半はキリスト教っぽい聖人譚です。
このあたりは、「ぶっ飛んでいる」とか、「想像の斜め上ww」とか説明されることが多く、説明された方もそれで納得しなければならない空気になりますが、きちんと補足したいとおもいます。
ファンド・アンド・リス(1967年)という映画が、ホドロフスキー監督の処女作になります。エル・トポ同様メキシコで製作・公開されました。これが結構真面目な芸術風映画で、娯楽映画を求めていたメキシコの聴衆からたいそうなお怒りを頂戴したそうです。
この反省から次回作は「(一応)西部劇にしよう!」と決意したとのこと。
エル・トポが仮に西部劇にならなくても、まっとうな人間、というか良心も欲もある凡人が、栄光と挫折を経てこの境地に至る流れは変わらなかったでしょう。
もちろん、そうやって完成した映画が、エル・トポと同様の熱狂と酷評を得られたかどうかは、誰にも分かりません。
街にたどり着いたエル・トポと女性は、なんでも屋を始めます。掃除夫と大道芸がメインのようです。
ホドロフスキー監督のパントマイムは、20世紀の映画ベストなんちゃらでは第1位に推されることも多い、「天井桟敷の人々」が原点になっているとのこと。実際にマルセル・マルソーという、名前だけで著名そうなオーラが漂う有名パントマイマーと共に活動していたそうで、本格的です。
大道芸の部分だけを見れば、古き良き時代のコメディ映画です。そしてエル・トポは、変わらずまっとうな凡人です。街には悪意がはびこり、フリークスに対する街の人々の差別意識にもエル・トポは気づきます。
それでも、生きていく。地下の秘密の娼婦宿に雇われ大道芸を披露するも、飽き足らない聴衆に「ここでやってみせろ」と脅され、性交を強要されます。
「周囲のことなんか気にしないで。私を抱いて。あなたを愛している」
唖然とし、感情が追いつかないままここまで観続けた映画ですが、不意に熱いものが胸にこみ上げます。
…翌朝、屋根もない荒野で迎える朝。女性は昨日の恥ずかしさから、「私のことを嫌いになったでしょう…」と布団から顔を上げません。そんな彼女を小脇に抱え駆け出すエル・トポ。
たどり着いた先は街の教会。
「結婚するんだ。さあ、神父さまにお願いをして!」
つつーと、頬を伝う何かがあるんですが。。でも、口元はにやけてしまうんです。「よかったね!あなた、エル・トポが仏像だった頃からずっとお世話してきて、大好きだったものね!」
…ほんとうに、よかった。。
「おめでとう」と振り向いた神父はしかし、エル・トポがかつて捨てた息子でした。
息子は父を殺そうとします。
「トンネルを掘り終えるまで待ってくれ!」
そうエル・トポは懇願します。
働いて資金を貯めダイナマイトを買い、トンネルを掘り続けます。途中爆風に巻き込まれ怪我をしますが、
「足は痛がっている。だが私は痛くない」
よく分からないのですが、ここでも泣きました。
そして、いつまで待ってもトンネルが開通しないことに業を煮やした息子に、
「手伝ってくれると助かる」
とか言ってしまいます。
最期
ようやくトンネルを掘り終えると、フリークスたちはエル・トポの制止も聞かずに街へとなだれ込みます。
街では自衛団が待ち構え、フリークスたちにライフルを向けます。無抵抗なまま全員が殺されたのち、エル・トポ到着。慟哭し、憎悪を目に宿らせ立ち上がるエル・トポの体を、数多の弾丸が貫きます。
悶え苦しみ、地をのたうち回るエル・トポ。
…ですが当然(当然?)、鉄砲で撃たれたくらいではエル・トポは死んだりしません。果敢に敵から銃をむしり取り、無差別に反撃を開始します。さすがは元「最強のガンマン」です!!
その頃、ひとつの命が誕生しようとしていました。エル・トポの子どもです。
そうとも知らず、復讐を終えたエル・トポは街道の真ん中で座禅を組み、ランプの油を頭から被ってその火を纏い自死します。遺骸は蜂の巣となり豊穣に蜜を湛えます。生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえ、亡骸に近づく女性と長男。エル・トポの物語は終わりました。
映画「エル・トポ」
エル・トポに限界があれば、君にも限界はある。エル・トポに限界がなければ、君にも限界はない。
先にご紹介した、ホドロフスキー監督本人の言葉を再掲しますが、エル・トポという作品を思い浮かべるたび、う〜ん。。と考えさせられてしまいます。
エル・トポは明らかに「超人」なんですが、同時に凡人でもあります。人間らしい多面性を持ち、欲望に負け、自分を過大評価し、絶望もします。小さな幸せを愛し、矮小な正義感も持ち合わせています。
タルコフスキー作品などを観ていると、どうしてこんな映画が創れるのか、まったく理解できないという思いが湧いてきます。
他方エル・トポは、ちょっと印象が異なります。…もし、どこどこまでも己の中の常識を疑い、自由な発想を突き詰め、そしてそれをすべて行動として表現できれば、確かにこんな作品になるのかな?と、思わないでもない部分が、ある気がするのです。
でも、その道が漠然とではあれイメージできるが故に、「自分には絶対に無理!」という結論に帰着します。
そして監督の言葉です。
エル・トポを観て「無理!」と思わないこと。それが「無茶」であることを理解した上で。
生きている間に、そんな境地に到れるとは思っておりませんが、でも、無理と思っている間は、何度でも繰り返し観る価値のある作品だと、私自身はそう考えます。
笑ってしまうほどに真剣で、目を背けたくなるほどに美しい映画。「エル・トポ」