夜、私はライム色の桜を見上げていた
ヒトケのない、京浜工業地帯の闇の中で、孤独に膝を抱えて。
とても寒かった。
春先だからと浮かれてスカートにしたことを後悔した。お店を出るときママから厚手のストッキングを渡されたのを、終電が去った鶴見線の無人駅のトイレで重ねて履いて、泣きそうになって、でも声を出してはいけない。
ヒトのケハイがするまえにトイレを出て、闇の中へと潜り込む。あとは自分の体も見えないほどの濃い闇を、工場の壁やフェンスづたいに歩いて、行く宛もなく。
直前、由紀レコオドでのこと
「これを、ひと晩あずかってほしいの」
そう言って渡されたずしりと重い袋を抱えて、私は閉店と同時に追われるように、お店の前の産業道路を越えた。
「道の向こう側に潜んでひと晩、これを肌身離さず持っていて。…誰にも会わないよう。誰にもこれを渡さないで。たとえ目の前に現れたのが私だとしても。それから。。できるだけ海には近づかないこと」
中身はオープンリール式のマスターテープ。…実物は見てはいないけれども、この演奏の、かなりオリジナルに近い世代のテープだと聞かされた。
【エフゲニー・ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル:ショスタコーヴィチ交響曲第5番】(1984)
…何故?という疑問の、答えはおそらく永久に得られない。
人の眠りの絶えた世界
「誰にも見つかってはいけない!海に、水の音に近づいてもいけない!」
産業道路の騒音が聞こえなくなる距離までは、ブーツで懸命に走った。…持久力などないので、すぐ息が上がって立ち止まり、足元から自分の長い影が延びていることに気づき、慌てて逃げ込んだ先は、満開の桜のカイナの中。
辺りは閉門した町工場ばかり。…遠くに守衛所が見えるような不眠不休の巨大工場は、煌々と明かりを灯し、夜空にも映える白い煙や、時には炎までをも吐き、止まぬ轟音。
操業中の工場は、ときどきクルマが出入りするので、見つからないためには引き返すほかはなく。…不意に産業道路の方からエンジン音が近づいてきたとき、意を決して車道と歩道の間の背の低い植え込みに頭からダイブ!
「私、なにやっているんだろう。。」
乾いた、排埃だらけの土の匂いを鼻先に嗅いで、汚れたの春コートが一番のお気に入りではなかったことに安堵したり。涙と鼻水が出てきたり。そしてエンジン音が去ってからむっくりと起き上がると、はらはらと、慰みのように降ってくる花びら。
不思議の国のアリスではないけれども、私が紛れ込んだこちら側の世界に、夜の眠りは存在しない。民家は一軒もないし、工場の中で仮眠している人がいるかも知れないくらい。
そう思うと不思議と孤独感は薄れてき、とぼとぼと宛もなく。「…誰にも会わないよう」闇を伝って、漠然とは地形が頭の中に入っている、でも自宅のベッドからは遠く離れた夜道を歩きはじめたのだった。
覚悟
一旦産業道路まで戻ってタクシーを拾って、…多分2万円以上掛かるだろうけれども…自宅に帰るということも考えはした。
なんであれ自分の身を守らなければ!あとから人のせいにしても、不幸になるのは自分だから。
真剣に検討して具体的な算段も考え、…その結果、もしタクシーで自宅に帰れば、二度とここに戻ることはないと、はっきり自覚することができた。
私が託されたムラヴィンスキーのショスタコ5番のマスターテープが、どういった経緯といわくを持つ品であるかは分からないけれど、まさか流しのタクシーの運転手までもが、「私が逃げなければならない相手」とは考えづらい。そこに危険は感じていない。
でも、翌朝自分のベッドで目覚めた私は、再びタクシーを拾って横浜まで戻ってくるだろうか?…いいえ!普通に電車を使うはず。…でも、それはあまりに人目につきすぎる。つまり、
「自分のベッドで目覚めた私は、もう二度と由紀レコオドには行けない私だ!」
ブランコのない公園
「ここで、なんとか朝まで我慢する!」
そう決心すると、私が取るべき行動は以下のように整理できた。
- 産業道路には近づかない。
- 海にも近づかない。
- 誰にも会わないで夜明けを待つ。
- 少しでも異変を感じたら場所を移動する。
- ママからの連絡を待つ。
不思議なことだけれども、夜桜は降り積もる雪に似て、隙間なく世界を埋め尽くす。
雪の上に足跡を残さず歩くことは人にはできないように、満開の夜桜の中にあって人の気配は僅かながら空気を濁らせる。
それで私は、自分がそこに留まってよいのか、すぐに立ち去らなければいけないのかを知ることができた。
だんだんと、自分が誰かに追われていること。相手も一人で仲間はいないらしいこと。やはり夜桜の力でか、相手も私の居場所と行動をぼんやりと把握していること。そして、絶対に鉢合わせてはいけないことが分かってきた。
ぞっとはしたものの、足が震えたり、背筋が凍ったりはしなかった。綿雪のような満開の桜は、特有の気味の悪さこそあれ、人の心を凍てつかせる魑魅魍魎の類とは、どこか違っているから。
お正月明けくらいにママが言っていた、
「桜が立派な、でもいつ行っても誰もいない公園があるの~。春になったら見に行きましょうね♪」
たぶん、それと思われる公園が目の前に現れた。かなりの距離を彷徨って、それが飛び抜けて見事な桜だったから。
海沿いの工場地帯は、公道と私有地の境目があいまいで、一本道を進むと門の前に出て行き止まり、ということが頻繁にある。そして小さな公園がぽつぽつと点在している。
…おそらく私の意思ではなく、夜桜の気まぐれ。街灯の灯りの届かない奥まった場所まで、ふらふらと歩を進めた。
遭遇
手探りで木のベンチを確認し、ショールを敷いて腰を下ろした。首筋をかすめるのろまな風はこそばゆくて、ほっとひと息ついたそのとき、道端の街灯の下に人影が見えた。
「…うそ?」
まったく気がつかなかった。。なんで気づかせてくれなかったの?そう毒づいても返事などあるはずもなく。。
私は濃い闇の中にいるけれども、街灯の灯りに透かして桜の花をばかり眺めていたから、闇に目がまったく慣れていない。自分の体に目をやっても、私が見えない!
人影は男性のようだ。こんなところにひとりでいるのが女性である方が、どう考えても異様だけれども。。
…加えて私にとって不利なことには、逃げ道が見当たらない!
街灯の明かりの下に飛び出して、男の脇をすり抜けられるか?あるいは、視界ゼロの闇を奥へと進んだ先に活路が見いだせるか?
左手で重い紙袋を抱え、右手でショールとバッグを掴んだまま動けずにいると、男の影はゆっくりとこちらに近づいてきた。
…私の姿が、見えているわけではなさそうだった。私のいるベンチにまっすぐに向かってくるのではなく、足元に敷かれた石タイルの、道っぽく見える色を選んで、闇の中まで辿ろうとしている。
男の横顔が見えまた。知らない顔。男の表情をばかり窺おうとしていたから、相手が大柄なのかとか逃げ出すタイミングとか、冷静な観察はまるでできていない!
もう、息を押し殺すしかない。腰を浮かせても沈めても、バッグの金具とかが鳴りそう。
…そして、とどめと言っていい、私に不利なことが起きた。暗がりに目を凝らしていた男は、闇にも目が慣れたのか、不意に私の方に顔を向け、口を開いたのだった。
「こんばんは。見事な桜ですね。少し、お話をしてもいいですか?」