怖い思いをしました
「由紀レコオド」という、京浜工業地帯にあった怪しいお店に入ってしまった私は、店主と思しき女性に声を掛けられました。
「トスカニーニっていう指揮者、あなた、知ってる?…知らないわよね〜」
状況は飲み込めないながらも、どうやら私は、怖いお店に入ってしまったようです。
「今の若い子は、クラシックなんて興味ないものね。大方彼氏のクルマでこの道を通って、変わったお店だな〜とか思って来たんでしょ?」
私がなんと答えたのか、覚えていませんが、多分必死に些細な誤解を解こうとしたのだと思います。そして感じたまま、「すごく、元気がでる音楽ですよね」そんなふうに付け足したことだけは覚えています。
褒められた。そして勧められた3枚(!)
「それ!そうなのよ。だいたい『リラックスできるからクラシックが好き』とか言う人は、クラシックを音楽として聴いるか怪しいものよ。多分BGMかなにかだと勘違いしているの。私の主人はそういう誤解をされるのが悲しいって言って、会社を辞めてこのお店を始めたの」
みたいなことをおっしゃっていたかと思います。…確かカウンターの内側のレジの横に、柔和そうな初老の男性の、少し古ぼけた写真がありました。
「この指揮者の方のオススメのCD、あったらいただきたいんですけど」
何かを買えばお店から後腐れなく出られると思ったので、私はそう口を挟みました。
すると、そうね〜。と言いながらのそのそとカウンターから出てきて、あちらこちらからCDを3枚ほど見繕い(うち1枚は店内で掛かっていたCDをプレイヤーから外し、ケースに入れて手慣れた手付きでビニール袋に戻して)、以下の3枚をカウンターに並べました。(記憶が鮮明な理由は後述します)
【アルトゥーロ・トスカニーニ&NBC交響楽団:ベートーヴェン交響曲第5番「運命」】
【アルトゥーロ・トスカニーニ&NBC交響楽団:チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番】
【アルトゥーロ・トスカニーニ&NBC交響楽団:ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界」】
「『新世界』は聴いたことがあるんでしょ?私が分かりやすい曲を掛けたら、『知ってる!』って顔していたものね」
…ああ。おかみさんが私に聴かせるためにCDを替えた作戦に、まんまと引っかかったというオチのようです。
「あと、ベートーヴェンの運命も、学校で習ったわよね。それからチャイコフスキー。曲名は知らなくても、CMなんかでも使われていたから、聴けば分かるわ」
「ええっ!3枚!?」
辛うじて口には出しませんでしたが、それまでCDなんて年に3枚買えばよい方で、、というか、どうしてオススメが1枚ではないのかが理解できません。…恐る恐る値段を見ると、どれも同じシリーズのようで、1,500円…が3枚で4,500円。う〜ん。。CDは1枚2,500円くらいと思っていたので、払えないお値段ではないものの、正直3枚とか要らないです。。
…あれ?そういえば、さっき流していたCDを売ろうとしてるけれど、これは中古?
と怪しんでいる間に、ベートーヴェンのCDの封を切り、再生ボタンを押してしまいました。
「コーヒーでいいわよね?ここに座って一曲聴いて行きなさい」
(ほぼ)人生初のクラシック鑑賞
…30分ほどの時間だったことを、家に帰ってベートーヴェンの「運命」の演奏時間を見て知りました。
その間私は丸椅子をあてがわれ、おかみさん(以下、オーナーの由紀ママ)の世間話に付き合わされましたが、ぺらぺらと息を継ぐ間もなく話し続ける一方、演奏の聴きどころでは、「ちょっと、この音に注目して」と適切な解説が入り、演奏がフィナーレに差し掛かる頃には、私もベートーヴェン交響曲第5番の鑑賞を心から楽しんでいました。
想像もしなかったほど、トスカニーニという指揮者の演奏は「勇壮」で、まったく優雅ではありません。それだけで、クラシック音楽に対する印象が180度変わってしまったのですが、由紀ママ曰く、
「モノラルなんだけど、この時代の指揮者の方が、個性があって分かりやすいのよね〜」
「…えっ?そんな古いCDを買わされるんですか?」
これも言葉にはしませんでしたが、知らない世界を垣間見た嬉しさと、どこかしら騙されているようなもやっとした気持ちが折半していました。
「○○県の方から来ているんじゃ、暗くなる前に帰りなさい。CD3枚とレッスン料で5,000円だけ、いただけるかしら?」
と言われ、「コーヒー1杯プラス、レッスン料なのだろうか?きっと水商売って、こういう感じなんだろうなぁ」とか、適当に自分を納得させました。
「とても勉強になりました。ありがとうございます。楽しかったです」
お礼を言って帰ろうとすると、
「3枚とも、ちゃんと聴きこなしたらまたいらっしゃい。次は、ジャ○ーズよりもかっこいい演奏を聴かせてあげるから」
そう言って、お店の外まで見送りに出てきて、私が角を曲がるまで、手を振ってくれました。