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南総里見八犬伝 – 江戸時代に書かれた「ラノベ」の金字塔

純文学かぶれの中学生だった私

…家の父の本棚に、「それ」があることは中学生の頃から知っていました。でも手に取ったのは社会人になってから。

私は中学生の頃は太宰治(1909-1948)にかぶれておりまして、そのひねくれて、素直じゃなくって、なんでも斜に構えて傍観するような書き方に「大人っぽさ」を見て、たぶん憧れていたのだとおもいます。

太宰治はよく人を貶すのですが、その影響で志賀直哉(1883-1971)と滝沢馬琴(1767-1848)を私もずいぶんと長い間、避けることになりました。。滝沢馬琴については、「子供だましの物語を書き上げることに情熱を注ぎ、失明までした愚か者」的な批判がされていたでしょうか。

 

また、我が国の近代文学の源流に近い坪内逍遥(1859-1935)も、授業でも習う小説神髄という著作の中で、八犬伝を否定し乗り越えることで、新たなる文学を生み出す的なことを書いています。

そんな歴史的背景があるからか南総里見八犬伝は、歴史的古典にも関わらず、現代語訳は抄訳が殆どで、その全容を現代の読者に伝えようという情熱を持った文学者はいないようです。。

我が家の本棚にあった「八犬伝」も、そんな「抄訳」のひとつでした。確か一夜を徹し8時間くらいで読み終わったかと思いますが、読後感はかなり目からウロコで、

「こんなに面白い物語が、江戸時代に書かれていたなんて、ビックリ!」

でした。

それまでずっと避け続けてきたことが勿体なく感じられ、どうしてこんな優れた作品が、名だたる文学者から批判を受け、歴史的文献としての価値さえ認められずにいるのか、大いに疑問を感じました。

八犬伝の子どもたち

試みにアマゾンで「里見八犬伝」と検索すると、すごいですね。「里見☆八犬伝」とか、Google日本語入力で自動変換されてしまい、最初は何事かと思いましたが、可愛いイラストの本たちが何ページにも渡って並んでいます。

…私が読んだ抄訳が一体どれだったのか、この中から探し出すことはちょっと無理そうです。

※追記。発見しました!作者の山手樹一郎(1899-1978)は、「桃太郎侍」の原作者のようです。

【山手樹一郎:新編八犬伝】

おそらくこれらライトノベルの作者さんたちも、私と同じように八犬伝という小説を読み、「分かりやすく面白い!」と感じて、自らの創作の原動力としたのだろうと思います。事実「そういう」面白さです。八犬伝という物語に溢れているのは。

勧善懲悪なストーリー、薄幸の麗人には死亡フラグが立ち(私が読んだ抄訳は、そこに救いを持たせる措置が取られていましたが)、分かりやすく色彩豊な伏線と、誠実なその回収。

…要は、現代の「ラノベ」に相当する読み物の原型として、南総里見八犬伝という物語が江戸時代に書かれ、「確かに面白い!面白いけれども、だ!もっと多様性がなければならん!」とか、高い志を掲げた人たちが「近代文学」を八犬伝のアンチテーゼとして立ち上げ、その文脈の中で虐げられ続けた八犬伝が今、ライトノベルという後継者を得て、近代文学に対峙しているという構図を描くと、分かりやすいのかな?と。

中国の水滸伝

中国ですと我が国の「八犬伝」のポジションには、「水滸伝」が鎮座します。どうやら古来中国の知識階級は、「フィクション」に対してものすごく高圧的な態度を取っていたようです。現代日本の小説好きな方であれば、中国モノとして「三国志」と「水滸伝」というのはツートップだろうと思うのですが、三国志、すなわち「三国志演義」は庶民の読み物で、エリート層は陳寿(233-297)のしたためた歴史書「三国志」を読んでいました。

一番分かりやすい例と言われているのが、日本では中島敦(1909-1942)が書いた「山月記」と、そのオリジナル中国版「人虎伝」の違いです。

青空文庫「山月記」へのリンク

山月記を普通に読むと、「李徴は虎になった」と解釈できますが、人虎伝の方は、「李徴らしき声の主は、自分は虎になったと言ってはいるが、それが本当かどうかは断定できない」(人が虎になるなどという「与太話」は、李徴の単なるいたずらとも読める)書き方になっています。

このあたりの「素直じゃない感じ」が、中国に限らず知識階層とほぼイコールだった時代のエリート層には、大切だったようです。フィクションが面白いことは理解しつつも、大手を振って「ファンタジー!」と言ってしまうことには抵抗があったのです。

西洋も同じです。…たぶん

指輪物語」の著者が、言語学者という自己のバックグラウンドを活かし、あれだけ長い前置きを書いて世界観を構築し、新しい言語まで創造してファンタジーを書き上げたのもやはり、作者の「教養」「知識階層という社会的地位」が邪魔をしたがゆえの、「言い訳」だったのでしょう。

それがファンタジーのスタンダードとなり、その映画版は、それまで頑なに「ファンタジーモノは対象外」という立場を崩すことがなかったアカデミー賞をさえ、動かしたという。

 

指輪物語」は、緻密で壮大な「世界観」を構築し、数多の子孫たちによって、「もうひとつの世界」と言えるまでに成長しました。…ミスリルは、実在こそしないものの、途方もない価値を持つ金属ということを、多くの人が知っています。

まとめ

水滸伝」を、これからの中国の知識階級が、一体どう扱っていくのか?

傍目に見守る以外にありませんが、古くて大切なものがどんどん失われていっている中国本土よりも、台湾に期待したい気持ちは若干あります。。

そして、我が国の誇るライトノベルの原点にして頂点「南総里見八犬伝」。

…少し穿った見方をすれば、現代日本におけるラノベの隆盛と純文学の不調は、「八犬伝」の復権ととれるやもしれません。

「演歌」というジャンルの音楽は、少し偏った見方をすると、猪俣公章というひとりの「天才」が生み出し、彼の死とともに衰退の一途を辿っているように、わたしなどには思えます。

同様に私見ですが、菊池寛ただひとりだと思います。純文学を文化かつビジネスとして成立なし得た才能は。

「小説のいちジャンル」としての純文学は、すでに明確な方向性も、ジャンルとしての存在感も不明瞭です。

「八犬伝のアンチテーゼ」ただその旗頭をのぞいて。

八犬伝にいつか、トールキン(1892-1973)が指輪物語のために準備したような、堅牢で応用の効く世界観を、熱心な後継者が与えてくれたならば…、と思うと、ものすごくワクワクします♪

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