ジョルジュ・バタイユ – エロティシズム
真珠を孕んだ文学作品が、ごくまれに誕生します。
ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)は、澁澤龍彦訳「エロティシズム」という書物で知られるフランスの思想家です。いわく、
「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる」
という訳文が有名です。
やたらと格調高い日本語ですが、とりあえず言っている内容はこんな感じです。
- 人は何故、エロティックなものに惹かれるのか?
- そしてそれは何故、犯罪や背徳などと容易に結びつくのか?
- その理由は、死こそがもっともエロティックであり、人はそれに惹かれつつ忌諱するからである。
エロスが死に近づけば近づくほど、人はそれに抗いがたい魅力を感じる。この「ふたつ」がひとつになってしまうと、人は本当に死んでしまうので、ぎりぎりのところまで近付こうとする。この「運動」を、静的な「構造」と対比づけて、「ポスト構造主義」なる思想的ブームが沸き起こったことは、きっと誰もが忘れていることとおもいます。
「これは定義ではない」
と、先の一文に続いて著者(および訳者)は述べていますが、バタイユが明言したこの「エロスの正体」は、どうにも反論の難しい、安直に言えば「真理」に該当します。
ここの部分を押さえていない、世に氾濫する「エロ本」どもは、私などからするとどれも赤面する以前に、「炭酸の抜けたコーラ」みたいな徒労感しか覚えないのですが、その理由は、それなりに若い時分にこの「真理」を突きつけられてしまったからだと、おもっています。(人生、損をしているとも言える)
…ただ、この「エロティシズム」という本は、思想書の体裁をとっているため、あんまり読みやすくないです。ものすごく、「美しい書物」なのですが。。
幸いにしてバタイユは、いくつか「小説」も書き残しています。「眼球譚」という作品について、以下説明申し上げます。
ジョルジュ・バタイユ – 眼球譚
エロ・グロ小説としてこれ以上、描写の凄惨さに於いて容赦なく、堅牢にして画期的な思想を持ち、それ故千差万別の「性的嗜好」の根幹を貫く普遍性を備え、かつ美しい作品は、「エロスの真理」が覆されない限りは人類史上、もう誕生し得ないのでは?…と私はおもうのですが、バタイユの作品の中でも、それほど評価されてはいないようです。
…まだ時代が追いついていないのかな?真面目にそう思います。
物語という、読み手が追体験可能な「エンターテイメント」であると同時に、その中に真珠を孕む紛うことなき思想書。世界一美しいエロ・グロ小説です。
表題作「マダム・エドワルダ」は、…う〜ん。比較的分かりやすい?これが「男性的エロス」なのでしょうか?正直私には、こちらの作品の方が名高い理由が、よく分かりません。
100ページほどの中編小説(それでも本書の中では最大のボリューム)「眼球譚」。これこそが「真珠」です。
「さあ、だれか賭けるひとはいなくて? みんなの前であたし、このテーブル・クロスのなかにおしっこしてみせるわ」
物語は、語り手である「私」と、遠戚の娘「シモーヌ」が出会った16歳頃から始まります。
マルセルという「うぶ」な少女の貞操観念と精神を破壊し、眼を突かれた闘牛士に興奮し、教会の懺悔室に恥部を晒し、話の筋は崩壊しながらも、確固たる思想の力で書き綴られる物語は、その結末を「続編腹案」に委ね、「完成」しているとは言えないかも知れません。
ですが、その必要さえ感じません。バタイユが言いたいこと、伝えたいことを、ここまで分かりやすく、「私」と「シモーヌ」の冒険を通して描いてもらえれば、もう十分です!
バタイユ以降のオススメ官能作品♪
…結局はこれが「私の性的嗜好」ということに、なってしまうのでしょう。
現代では肉体の性別に囚われない、様々な「愛のかたち」が叫ばれていますが、繰り返します。
「エロスは、禁忌と結びつきたがる性質を持っています。性の多様性は、そこに予見されていました。ジェンダー論が『タブー』ではなくなった瞬間、それは求心力を失います」
…暴論と取られるでしょうが、「不倫とLGBT問題の根源は同一」としか、「バタイユに急所を押さえられてしまっている」私には考えられないのです。
別のブログでご紹介しているこちらの2作は、明らかな「バタイユの子どもたち」であり、同時に私の性的嗜好を現していて正直、ご紹介するのはとても恥ずかしいです。。