「否定は肯定の対義語ではない。否定は肯定に隷属する」
というコトバを昔から意識していて、折りに触れ、「やっぱりそうだな〜」とかんじます。
…たとえが難しいのですが、野球の「ジャイアンツ」でよいでしょうか?「アンチ巨人」を自称する野球ファンがいて、そういう人たちはジャイアンツを負かすチームを応援したり、ジャイアンツが負けることを喜ぶと思うのですが、もし、「ジャイアンツ」という球団がめちゃめちゃ弱くなってしまったり、球界再編でZOZOタウンに買収されてジャイアンツという球団ではなくなったりしたならば、多分ジャイアンツのファンと同じくらい、アンチ巨人ファンの人たちは悲しむと思うのです。。
つまり、「アンチ〇〇」という方々は、「〇〇」がなくなってしまうと、自らのアイデンティティを喪失してしまうというわけなのです。
こういう考え方をするとき、では「巨人ファン」の対義語がなにになるかと言いますと、敵はプロ野球にそもそも関心のない層の人たちとなります。
同じように、LGBTという問題を昨今考えています。
性、もっと言うならば恋愛対象が、自らの肉体的な性別が本来求める形とずれている。それが多くの人たちに違和感を与え、当事者の苦しみを産み、社会問題となっているわけですが、元を正せば「肉体的な性別が本来求める形」という概念があるから、そこにマジョリティとマイノリティの違いが生まれてしまうのです。
ですが先の論法に従うならば、この「ノンケ」と「LGBT」の関係にはさして意味がなく、そもそもこの対立項を成立させている「恋愛感情」の有無の方が、問題の本質に近いはずです。
…ちょっと乱暴ですが、次のような主張に意味はないでしょうか?
- 恋愛感情があるから、ノーマルとされる恋愛と、LGBTなどのマイノリティの差異が問題視される。でも、生産性とかなんとかを言うのであれば、そもそも恋愛に関心を抱かない、人との結びつきを望まない層の方が問題ではないか?
と。
我が国で時代と共に、お見合い結婚よりも恋愛結婚の方が一般的になってきた流れの中で、LGBT問題は矢面に立たされるに至ったと思うのです。
「愛する少年」という表現が頻出し、主人公ソクラテスを思慕して狂わんばかりの美青年が登場したりするプラトンの「饗宴」の世界では、少年愛はそれとして存在しながらも、ソクラテスはクサンティッペという奥さんと結ばれ子もいたようですし、恋愛という、人類の歴史の中で常にトラブルしか産んで来なかったコミュニケーションの在り方を、「生産性」の基盤に置くこと自体が、かなり脆弱な政治的ビジョンではないかと私はおもったりしています。
「好きな人同士」が結婚をしてもよいですが、別に結婚をしなくてもよい。恋愛感情を基盤とした婚姻関係は、恋愛感情の喪失と共に解消するリスクもあるので、たとえば銀行などでは未だに「未婚」の行員さんは出世に不利という文化が残っているとも聞きますが、最早「単なる結婚」では、その人の「家庭に対する責任感」を量るには不十分ではないでしょうか。
他方、少子化が殺人と同様、人類の存亡に関わる問題であることは確実ですので、生産性ということを言いたいのであれば少なくとも、色恋話とは切り離して政策を考える方が合理的とおもいます。