天野可淡のお人形と会ったのは、昨年の、確か2月。お友だちとフラメンコの発表会を観に行く前の空き時間を使って、銀座の雑居ビルにある小さな「美術館」で。
ずっと前から知っていたけれども、バイク事故による作者の死、作品の散逸そして伝説化によって、本人たちと会えるなんて、夢にも思っていませんでした♪
球体関節人形については、実は殆ど知識がなくって、美術館にいた可淡人形以外のお人形たちにも、それぞれの個性があったとは思うのですが、どうしても可淡人形とは「光と影」。あくまで比較対象として見てしまいました。
可淡人形には、絶対的な「拒絶」があるように感じました。
「アタシは可愛くなんかない。アタシはお人形さんじゃない。アタシは人間でもない」
その他の作家のお人形たちには、「スタイル」がありました。和服を着せられたり。…拘束され、それが似合っているお人形など、「セールスポイント」が明確だったような。
でも、可淡人形にはそれがなく、きれいに着飾ってもらっても、全裸で、ときに片腕がもがれたような状態で横たえられても、同じようにそこに馴染まない。
美術館の出口近くで、長いこと写真集を眺めていました。するとオーナーさん(兼写真集の著者さん)が、色々と説明をしてくださいました。「いつまでここで展示できるかは分からないんですよ」「ツイッターもやっているので、よろしくお願いします」
天野可淡の影響を一番見て取れる大衆作品は、押井守の「イノセンス」でしょうか。
もっともっと、聖俗入り混じり、天野可淡は世間の興味を引いてもよい存在のように思うのですが、あんまり盛り上がっていないようです。。
…お人形、というところが、人類のほぼ半数の興味を惹かないのでしょうか?確かに男性は可淡人形に、「怖い」という印象を持たれる方が多いとは聞きます。
…そして、私の勝手な感慨ですが、可淡人形たちは、忘却と荒廃、劣化と逸失の中にこそ居場所があるのかな?なんて思ったりしました。
「アタシは朽ちているの。作られたその瞬間から」
写真集はとても素敵でしたが(購入しました♪)、中には磯辺で波を被っているようなお人形もいて、所有者である著者さんは、そこでそのまま、お人形たちの遺棄を夢想もしたのではないか?…もちろん、そんなことはできるはずもありませんが。。
不法投棄されたゴミの中から顔を覗かせる薄汚れたお人形。そこには怨詛も懇願もなく。。
可淡人形に一番近い存在は、彼ら・彼女らなのかも知れません。