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嫌韓とイチローさん

ふたつ、最初に宣言させてください

昨今、日韓問題の記事は、ヤフーのトップページで容易に、最新かつ数多のメディアの手による情報に触れることができます。

とりわけぱっと見、日本の報道機関ではなさそうな情報ソースについては、ほとんどが韓国国内で韓国語で書かれたものを、どなたかが日本語に翻訳する労を厭わずに、提供してくれているということですから、正直よく分かりません。

最近はその「しくみ」に遅まきながらも気づいて、リンクをクリックしないようになりましたが、

という書き手の「打算」。ほんとうに、これを打算と呼ばずして、どこに打算があるものか?と叫びたくなるような打算が、堂々と屹立しています。。あ〜あ。

 

…ここで、ご本人およびファンの方々には、大変申し訳ないのですが、こういう「打算」記事。言い換えれば、読み手に愛でも情熱でも信念ではないものを届けようとする記事、および見出しを、数年前までたまに見かけたな〜。と思い至ってしまったのが、「イチローさん」に関する記事の一部でした。

すでに引退された、世界的なプロの野球選手であることはわたしも存じております。

しかしながら、元来スポーツに関心が薄いものですから、たとえば誰も知らなさそうな例として、フルトヴェングラーとカラヤンの間、ほんの「歴史の一瞬」だけベルリン・フィルを率い、そして凶弾に倒れたレオ・ボヒャルト(生没年見つけられず)などには、熱意を持って記事や記録(レコード)を漁ることはあっても、「世界的スポーツ選手」「歴史に名を残すスポーツ選手」の情報を集めようとすることは、ないです。。

ですので、この方の実績や人となりには疎いのですけれども、それでも「この見出し、悪意に満ちていませんか?」と感じる記事を目にすることはどうしてもありまして、それがこの方を扱った情報である割合は、高かった印象があります。

…これがたとえば、政治家や文筆業者などでしたら、「ひとつの発言」に食い付いて、その「正義」を糺そうというメディアの意図も理解できます。その意味で、「あの方も、メディアにずいぶんと悪者扱いされていたな〜」と思い当たる例はいくつもあります。

ですがこの方の場合には、スポーツ選手です。スポーツ選手の思想や主義を軽視するつもりはありませんが、「ヤツのこの発言には問題があるぞ!」ではなく、「読者がコイツを嫌いになりそうな記事を書いてやれ!」という書き手の「打算」はもう、それでビューを稼ごうという以上の意義や信念など、そんな記事には、ありませんよね?

 

最後に取り繕うような言い訳をさせていただきますと、わたしはスポーツ観戦を嫌っているわけでは、ないのです。祖父の膝の上で、高校野球を見ていた懐かしい思い出もあります。

…ただ、大人になってわたしが、人が頑張っているスポーツの試合を見ると、「頑張っているねっ♪」「感動したぁ〜!」ではなく、「わたしもいい加減頑張らないと。。」「この時間、わたしはなにをやっているのだろう。。」と、我が身を猛省する機会にしか、ならないのです。。

これは結構、辛い時間ですし、同時に「頑張ろう!」と奮起すれば、自ずとスポーツ観戦から離れるというサイクルが、出来上がります♪

試合そのものではなく、スポーツ観戦という娯楽が持つ構造には、ときにはっとさせられることはあります。

別にクラシック音楽が、他のジャンルの音楽や他の娯楽に比べ、高尚であるとか、学ぶことが多いとか、考えているわけでもありません。単なる趣味・趣向の問題です。

 

…あと、どうでもよいことですが、適切なスポーツに親しむ習慣が、もしわたしにあったならば、自分のスタイルに対するコンプレックスも、幾分和らいだ可能性もあるかな?とかは思います。。

などと言う一方で、わたしの骨格形成にとって一番大事な時期に、強制的に水泳をさせられたことに対する恨みはかなり深いです。そして学生のころ、実はバレーボールには憧れがありまして、一瞬だけ入部したのですが、当時仲のよかった子の何気ない「バレーやると、身長伸びるっていうよね」という言葉にはっとし、慌てて辞めました。

…いずれも因果関係は、不明ですけれども。。

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