CDの買い方がおかしい
その年の秋から年明けくらいに掛けて、私はほぼ毎週末、由紀レコオドに通いつめました。すぐに常連さんたちとも仲良くなりました。…もちろん人間同士の付き合いですので、「終始小馬鹿にされる」「そもそも相手にされない」ことも稀にはあり。
それでも大半の方とは良好な関係が築け、クラシックに留まらない、私の知らない世界を教えていただくことも多かったです。(いずれ文章にできればと思います)
…一番びっくりしたのは、ほとんどのお客さんが、お店の「かご」を入店と同時に手に取ることです。ほんとうにちいさなお店。小ぶりながら入口近くに「かご」が用意されていること自体、最初は意味が分かりませんでした。
そしてそれがレジに置かれるときには、溢れんばかりのプラスチックケースが積まれていることも珍しくはないのです!お買い上げ金額も、私とはひと桁異なることの方がむしろ多く。。
ときにはお店番をすることもありました。けれど私は、毎回オススメされたCDを購入し、コーヒーをいただき、レッスン料込みの料金を払う、あくまでも「常連客」の一人であり続けました。最後まで。
知ったいくつかのことがら
由紀ママは自分のこと、ご主人のこと、そしてお店のことをほとんど語りませんが、古くからの常連さんとママとの会話の端々から、いくつかうかがい知れたことがあります。
マスターであるご主人は、既に亡くなっていること。元々は駅のそばにお店を構えていて、オーディオ装置にもお金を掛け、今より「硬派」なお店だったこと。でも火事ですべてを失ってしまい一度は諦めかけたのだけれども、いろんな人の支援があってここにお店を再建したこと。
ママはオーディオにはほとんど興味がないようですが、造詣は深いようです。ときおり「家のを新調したから」と、常連さんたちが持ち込んでくるお下がりの機材を、その方が好き勝手に接続するのを無関心に眺めています。そして「ママ、どう?」と実際の音を聴かされてはじめて文句を言い始めます。
ママのチェックはいつも閉店すぎまで掛かり、「あなたは帰っていいから」「別にオーディオに拘る必要はないのよ」と、私は最後までお付き合いしたことはありません。
オーディオ・マニアの生きざま
…私もママと同様、オーディオにはあまり興味がありません。それがぜったいに近づいてはいけない世界であることを、常連さんたちの姿から学ぶことができたからです。
「ベイシー」という単語が、よくオーディオ・マニアの常連さん同士の会話の中に登場します。リンク先のWikipediaによれば、岩手県一関市にある「日本一のジャズ喫茶」だそうです。
こちらのオーナーさんの著書は、常連さんに貸りて(渡されて)読んだことがあります。…はい。よく分かりませんでしたが、以下のことは読解できました。
- CD厳禁!鳴らしてよいのはレコードだけ。
- 最高のオーディオ機器には、最高の建物と電源が必要。(ベイシーは「蔵」だそうです。私も実はSTAXをさんざん煽られて買ってしまいまして、アンプの電源を、タコ足にするのと直接壁のコンセントに挿すので音が変わるのにはびっくりしました。。)
- セッティングするときには、耳から血が出るくらい爆音で聴きながら、徹夜で音を調整するらしい。(普通にコンサートに行くだけでそうなるので、私には無理。。)
そして音の善し悪しが分かる耳も私にはないのですが、もうひとつ分かったのは、すぐれた録音をよりよい音で聴くことと同じくらい、録音状態が悪いからこそよい音で聴きたい!という情熱をみなさんお持ちだということでした。
とある常連さんが、音のチェックにひたすら流し続けた演奏が、この1枚でした。「リパッティにラスト・リサイタルを、最高に心地よく弾かせてあげたいんだ!」と。
【ディヌ・リパッティ:ブザンソンのラスト・リサイタル】
時代と人間のザンコクさを聴く
ルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッティ(1917-1950)は、1950年9月16日のこのコンサートを最後に死の床に着き、同年12月2日に33歳で亡くなりました。
現代の日本では著名人の深刻な病状も、ニュースのみならず本人による情報発信までされますが、当時はどうだったのでしょう?リパッティの晩年については、以下のように伝えられています。
- 彼の病気は、当時の不治の病(ホジキンリンパ腫)であった。
- 2ヶ月間だけ病状を抑えられるコルチゾールという高価な新薬が登場し、支援者の援助によって投与された。(1950年7月~8月。リウマチに使うステロイド系の強力な炎症抑制剤のようです)
- コルチゾールは「治療薬」ではなく、単なる「緩和ケア」だったもよう。
- 病状の落ち着いたこの2ヶ月間を狙って、レコーディングが企画・録音される。(一体どんな気持ちで演奏し、そして録音したのか。。)
- 9月に入りコルチゾールの投与打ち切り。本当にただ死を待つのみとなる。
- 「私は約束した。私は弾かなければならない」と、リパッティは医師の反対を押し切り、9月16日にリサイタルを敢行。(この録音です)
- 以降、婦人の手記によれば激痛に苦しみながら、ときに自室のピアノに向かうなどし、12月2日永眠。
観客もスタッフも本人も、「これが最後の演奏会」と思いながら拍手をし、レコーディングをし、ピアノを弾いていたのだと、どの資料を当たってもそんなふうに書かれています。
…こういうストーリーを聞かされると、なんだか聴いてみたいような、みたくないような、ふらふらとした気持ちになります。ところが否応なくお店で流れる実際の音は、
たんたらたららんたんたんたんたん
たんたらたららんたんたんたんたん
たんたらたららんたららん、たららららん♪
死の淵にあってなおこの人のピアノの音色は、ピュアに歌っているそうとしか形容のしようがないもので、過酷な運命も、人間味溢れた愉悦もここにはありません。
感動ポルノと呼ばれるような、過剰なメリハリをつけた分かりやすさとは別物であることは当然なのですが、孤高の芸術ぶった、分かる人にだけ分かればいいというようなお高くとまった感も皆無なのです。
速弾きであるとか超絶技巧の持ち主であるとか、あるいは強い癖がその人の持ち味になっているわけではなくって、ただひたすらピュアにピアノを歌わせることにかけて、70年近く経た今でも、リパッティを超えるピアニストは現れていないと言われています。
ウルトラセブンのBGM
また、上記の常連さん曰く、リパッティとカラヤンによるシューマンのピアノ協奏曲は、ウルトラセブンの名シーンにも使われており、当時の少年たちのクラシック熱を大いに煽ったそうです。(話半分に聞いておきましょう)
動画が見つかりましたので、最後にご紹介いたします。1948年の演奏ですが、おそらく既にリパッティの身体は、病に侵されていたと思われます。異様な緊張感と背景とを伴った演奏だからこそ、こういうシーンに採用されたのでしょう。
【リパッティ&カラヤン:シューマン ピアノ協奏曲イ短調Op.54】
(2018年10月10日追記)…最近コラボCDまで、発売されたもようです。。