芸能人さんとタレントさん
麻薬や、反社会的勢力との関わりなどで、メディアから姿を消す、あるいは逮捕される著名人は跡を絶ちません。そこから「立ち直り」復帰を果たした人たちも、過去には大勢いることと思います。
個人的な意見でしかありませんが、将来的な復帰が許されるかどうかは、次の一点で区別してしまってよいのでは?と、昨今考えるに至りました。
芸能人さんであれば、需要次第で復帰可。文化人であればおそらく許されるべきではない。
こんにち事態を複雑にしているのは、この「文化人」というカテゴリーではなかろうかと、深く思い悩む次第です。
なにしろ殺人を犯す、あるいはそれに関わることですら、知名度と注目度を上げタレント活動ができる時代ですから。
少し前に、アマゾンプライムで興味深いテレビアニメを視聴しました。
【昭和元禄落語心中】
内容もとても気に入り、出会えてよかったと思える作品ですが、(史実には基づかない)昭和の落語界を描きつつ、しかし気になったのは、いわゆる裏社会の人たちと、芸の世界に生きる人たちの濃厚なつながりです。
それは「よい」「わるい」と紋切り型に言えるものではなくて、元来芸事がそれだけ「やくざ」な生き方であることを、再認識させてくれたという言い方が、一番適切かと思います。
美空ひばりの結婚と離婚が、ときの山口組組長主導で行われたというのも、おそらく有名な事実なのでしょうし、吉本興業はその成り立ちから、同じ人物が深く関わっていたと言われています。
麻薬中毒患者の「麻薬との正しい付き合い方」
わたしは芸能界には明るくありませんが、大好きなジャズの歴史を通じて、麻薬・覚醒剤の恐ろしさについてはある程度のイメージを持っています。
…チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンスといった「ジャズ・ジャイアンツ」たちの命を奪ったのは、間違いなく違法薬物です。そしてこの文脈で取り上げられることはあまりありませんが、「帝王」マイルス・デイヴィスも、結果的に薬物によってその「輝かしき余生」を失ったと、表現してよいと思っております。
65歳まで生き、死の直前まで「偉大なるブラック・アーティスト」として活躍しましたが、若かりし頃の麻薬渦により健康状態はボロボロで、ただそれを持ち前の「いい格好したがり」根性でごまかしていただけ、ということが真実であるようです。
マイルス・デイヴィスと麻薬についてとく語られる逸話に、「ブルーノートしか相手にしてくれなくなった最悪期に、実家に籠もって壮絶な麻薬絶ちをした」というものがあります。ですが自伝を紐解くに「オレはこれで完全に立ち直った。…今でも使うことは使うが、とにかく立ち直ったのだ!」的な書かれ方をしており、やっぱり「コントロール」はできても、完全な「断薬」はできていなかったことがうかがえます。
法的問題、著名人としてのイメージの問題はあるでしょうが、わたしは一度麻薬関係でキャリアを損ねてしまった人たちについては「立ち直った」あとも、「うまくコントロールできているのかな?」というような目でしか見ることができませんし、それはそれでもう、仕方のないことではないかと、ジャズの歴史から思うのです。
麻薬を例に挙げましたが、要は「完全にクリーンであること」を芸事に生きる人たちに求める必要は、必ずしもないのでは?ということを申し上げたく。
わたしがもっとも不穏に感じている書物のひとつ
そして、芸事に生きる人と、その人の発言や行動が社会に影響を及ぼす文化人とは、重複してはならない、とは思わないのですが、いわゆるスキャンダルを発生させてしまった際の身の処遇、そして社会の目という意味では、明確に区別できた方が、よろしいかと考えております。
…このあたりは、今はSNSの発達もあって本当に境界線が不明瞭になってきておりますが、きっかけになった本が、あるようにわたしは思っております。
オススメするわけではないので、もんやりとした情報に留めさせていただきますが、ジャイアンツで引退された、かなり見栄えのよろしい投手の方が、西暦2000年代に新書を上梓しております。
その本を書店で見かけたときのわたしの最初の印象は失礼ながら、「新書、終わった」というものでした。
わたしは「新書に育ててもらった」という自負があるくらい、新書は大好きなのですが、こちらの作品の登場以降、新書は明らかに変質しました。今でも良書はたくさんありますし、こちらの著書の存在を否定するわけでもありません。しかしながら、新書のそれまでの「お求めやすい格調高さ」は、このとき失われたと感じます。
そしてその潮流が、「スポーツ選手も文化人」「芸能人も文化人」「殺人犯も文化人」という現代の世情にまでつながっていると考えるのは、被害妄想でしょうか?
わたしが社会に対し、望めないけれど願いたいこと
とにかくある程度の知名度を獲得した人物、きっと100年前の英国であれば「紳士録」に掲載されたような人たちひとりひとりについて、その人が「文化人」であるか否かを個々人が考え、その発言の重さと社会的責任を意識していけたらな♪と思っております。
…そういう意味で、今いちばん「厄介」な一例として挙げることができるのは、ロンドンブーツさん、、かな?ともおもいます。
お二人それぞれのお名前は存じ上げないのですが、今回スキャンダルとは無縁だった方は、かつて政界入りを噂されたり、各種問題に対して持論を唱えたり、「文化人」としてのキャリアを構築しておられているように感じます。
芸能人としては「相方さん」のスキャンダル。こちらは大きな問題とは、考えていないわたしですが、「文化人」的立ち位置をこのまま継続されることには、正直強い違和感を覚えます。
もちろんこれは、ロンドンブーツさんのファンの方を含めた個々人が、その善悪を考える、考えない。あるいは問題視する、問題視しないことがらです。スポーツ選手が、その才能と稀有な体験を元に文化人として活動されることを否定する気持ちはありません。
…ですが、それが単なる「知名度」に由来する行為であるならば、それは「殺人犯がその稀有な体験を元に文化人として活動する」ことと根本的な違いがわたしには理解できず、こちらは大いに問題であると、人類の品位に訴えかけて、なんとかしなければ!と危惧いたします。
確かに、文化人と言う範疇には、どう理解して良いのか悩みますね。同じような意味で、知識人とか知識階級と言う言葉も悩みますね。それと、最近は、ちょっと歌を歌っているだけでアーチストと名乗ったりもするのも、違和感を感じます。
テレビで、コメントした人が、いつの間にか、○○大学教授とか、特任教授とかの肩書になるのも、違和感を感じますね。
早稲田大学すら、小保方女史の博士号を簡単に剥奪しましたが、彼女の指導教授や博士号を付与した審査会のお偉い教授先生たちは、責任を取ったとは聞いていませんしね。
話が横道にそれましたが、文化人、どう見極めたらいいか、難しいですね。
杉山さん。おはようございます。
お返事が遅くなりまして、申し訳ございません。m(_ _)m
ちょうど今世間では、野球の野村監督がお亡くなりになられ、ニュースになっておりますが、これまでの著名人の際の追悼ニュースとは、追悼される方の幅と人数が桁違いで、「きっとこの方は、スポーツ選手であったと同時に、文化人というか、教育者だったのだな」と、びっくりしております。
文化人という言葉も、わたしが曖昧なままに使ってしまっておりますが、野村監督のお名前を出したついでに、プロ野球の歴史で「文化人」について、野球を全然知らないくせに考えてみますと、かつて小林秀雄が、中西選手という方を著書で取り上げております。(以下、文化人の敬称は省略します)
…200年後、プロ野球がもしなくなったならば、きっとこの中西選手が、歴史上最も有名なプロ野球選手になるのだろうな〜、と、ずっと考えておりました。
でも、これだけの人を育てた野村克也という人物は、野球が廃れても、歴史に埋もれることは、ないのかも。。
と、思いを新たにした次第です。
マスメディアの影響力も、今後相対的に小さくなってゆくと思われますし、「なにをもって文化人と呼ぶのか」も、自分で判断してよい、自分で判断しなければならない時代が、もう来ているのかな?と感じます。
よるそら。