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京アニ放火犯の「小説」買いませんよね?

「殺人鬼」というタレント

酒鬼薔薇聖斗の著作を出版したのは幻冬舎です。好きな作品も多い出版社ですがわたしはもう、この会社の商品にお金を払うことはやめました。

炎上商法が「ビジネス」として成立する可能性がある以上、現在火傷の治療を受けているとされる本事件の放火犯、或いはその親族に、応募小説の出版を持ちかけている輩は、今この瞬間に必ず存在しています。

…酒鬼薔薇の本についても、最初はそれを断った出版社があったと言われています。憲法第九条の解釈云々には拘る一方で、「言論の自由」という定型文の定義と運用については、自分たちの解釈に意義を認めないメディアにそれを言ったところで、虚しいだけですが。。

言葉の正しい解釈は、ただ一通りのみ存在する

少し前に山縣有朋の本を読みまして、立身出世した長州藩の若者たちが、手探りで我が国の「まつりごと」を設計してゆく様に、ドキドキといいますか、…じつはキュンキュンしてしまいました❤

その中でもとりわけステキだったのは、初代総理大臣を「仲間うち」で決める会議で、総理大臣職の前身である太政大臣の地位にあった三条実美(1837-1891)と伊藤博文(1841-1909)のいずれか?という一騎打ちの段で明暗を分けたのは、「初代」山縣公(今は「五代目さん」が都内にいらっしゃり、「四代目の奥さま」も96歳でご存命と、山縣有朋記念館でお話を伺いました)の「これからの国政のトップは、英語が喋れないとまずいのでは?」…というひと言だったというくだりです。

我が国の政治も、「お隣さん」たる韓国の政治も、先輩たるヨーロッパのそれを専門家として「研究」し尽くして成り立っているわけではなく、留学生たちが素人なりに学び、感じたところから端を発している、これからもっともっと、洗練させていかねばならないものなのだな〜、と強く思った次第です。

 

…ずいぶんと脇道に逸れておりますが、何を申し上げたいかといいますと、

  • 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

という我が国の憲法第九条の正しい解釈は、この条文を作り、そして承認した人たちのその時点での思惑と完全に一致しています♪

…もし、その「思惑」が、

「いや〜、この文章考えた当時は、こんなことが後の世に起こるなんて、想像もしていなかったんだよね〜。てへへっ」

…ということであるようでしたら、その当事者たち、或いはその「思惑」を受け継いだ人たち(当然いらっしゃいますよね?)によって、再検討していただけますよう、お願い申し上げます。

政治的に色々とタイヘンであることは、いち国民として想像の範囲で理解してはおりますが、「この文章、なに言おうとしていたのか、さっぱり分からないよ!」となってしまったコトバは、もう「言葉遊び」以外のなにものでもございません。ダジャレです。

我が国の秩序と権威には、従順でいたいですけれども、さすがにダジャレを崇め奉るのは、ごめんなさい。笑いをこらえるにも限度があります。。

言葉を替えれば、言葉という文化ツールに対して、態度としてあまりにも失礼です。定型化された憲法という権威は。ツールどころか、世界の写像にさえ、なっておりません。

現代日本のソクラテスの思想をご本人の没後に読みたい!

少し前に、事件を風化させたいかどうかの決定権は、少なくとも被害者側にあってほしいという内容のブログを公開させていただきました。

…とは言え、「言論の自由」というコトバの意味を極力過小解釈してみても、わたしの駄文でさえ、「不愉快」とお感じになられる方(それでも最後まで目を通していだだける方❤)もいらっしゃること。

それを以て、「何も語らず、貝になろう」とすることは、わたし自身できなかったわけですから、事件の加害者とされる側が冤罪を主張することも、およそ確定している「殺人鬼」当人および家族が著作を出版することも、異議は唱えたい一方で「やめてください!」とは言えません。

ただ、「なんだかいやな世の中だな〜」と、勝手に人類に幻滅しそうになるだけです。

そんな中、こんなことをおっしゃる方が、いらっしゃいました♪

「私はあの事件で犯人扱いをされた。でも、人は過ちを犯すものだと学んだ。だから仮に私があのまま有罪となり死刑となっても、娘たちには『人は過ちを犯すのだから、許してあげなさい』と伝えていた」

松本サリン事件で、最初に犯人と疑われ、ご家族も被害に遭われた河野義行さんです。

メディアを通じて感じるこの方の姿勢は、あまりにも達観しすぎていて、同時代を生きる者としては、尊敬しつつも近寄りがたさすら覚えます。

不謹慎な物言いではありますが、この方の人生、そして「何を感じ、何を考えたか」は、後の世に俯瞰したいです。

そういう未来が、訪れるものかどうかは分かりませんが、「スポーツ選手は20年」「サラリーマンは40年」「指揮者は80年」「哲学者は1000年」とも形容される寿命換算で、河野さんの「寿命」が1000年に届きうる可能性を、わたしは期待しております。

メディアの方々には、こういう方の「生き様」、ご本人の著作に描かれない「言動」をこそ、プラトンのような態度で追跡していただきたいものです。

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