hon

風化させてはいけないのは「事故」であって「事件」ではないのでは?

現在の日韓関係であっても「ヘイト」はいや!

…というわたしの思いを、最初に宣言させていただきたいです。その上で、

  • いわゆる「無敵の人」による無差別殺人事件
  • 和歌山毒物カレー事件の被告親族によるツイッター情報発信
  • ついでに「酒鬼薔薇」こと元少年Aの同じく情報発信

等の問題について、やっぱり、なにかを言いたいわたしがいます。。とりあえず、一冊の本をご紹介申し上げます。

【池田晶子著:死と生きる】

1999年の本なんですね。もう20年前。。著者の池田晶子(1960-2007)は、「女は哲学者にはなれない」と、自ら「哲学の巫女」を名乗り、若い頃はモデルもやっていらっしゃったという、現皇后さまとはまたタイプの異なる、「才色兼備」の女性でした。

後述する理由から、共著者の名前はわたしは記載しません。本書の概要は、死刑の確定した殺人犯が、「よく生きる」(by ソクラテス)ことに目覚め池田晶子氏に手紙を出し、そこから始まった書簡のやり取りを収めたというものです。

出版社的には「気鋭の女性哲学者と死刑囚の対話」という、セールス文句になります。今でも入手可能のようですね。

「人を殺した時点で人の道を外れている。そんな人間を理解はできない」

池田氏はそう最初に宣言した上で、死刑囚との対話を進めます。

…ちょっと横道に逸れますが、池田氏もスティーブ・ジョブズも大好きだったソクラテスも、「死刑囚」でした。いくらでもそこから逃れる術も協力者もあったにも関わらず、「悪法でも法は法」「ただ生きるのではなく、よく生きることが大切」と、毒杯を仰いでこの世を去りました。

池田氏がこの死刑囚に興味を抱いたのも、きっとソクラテスに対する興味の延長で、死刑囚本人に、ではなかったのではないでしょうか?(もちろん、「人として」接していますし、多少なりとも情は移ったでしょうが。。)

およそ要約としてこの本をまとめるならば、死刑囚の、

「死ぬことは怖くない。自分の罪と向き合う覚悟もある。ただ、自分が殺めてしまった人たちから『よく生きる』機会を奪ってしまったことが、申し訳ない」

という言葉で十分かと、おもいます。(すでに死刑は執行済のはずです)

 

また、これとは別の事件ですが、

自分の目に割り箸を刺して獄中死した殺人犯

がいます。こちらも名前は載せません。もちろんネットでお調べになれば簡単に検索できますが、なんというか、この殺人犯の行動は、人の道を踏み外した者が為しうる一番ましな行動なのかな?と、この事件が起こり、逮捕に至り、裁判の様子や犯人の生い立ちや人となりなどをニュースで知る過程で、こういう結末をわたしは、予想できたわけではありませんが、この「終幕」には「ああ、なるほど!」そう思いました。

…わたしが殺人犯の名前を記載しないのは、もし自分が「遺族」の立場だったなら(という想像に過ぎませんが)ひたすらに望むことは、「犯人の情報が二度と更新されない」「自分たちの耳に届かない」ことだろうと、思うからです。

刑務所あるいは更生施設にとって最大の過失は、「囚人に死なれること」だそうです。囚人は「死んではだめ!」「とにかく生きなさい!」という「矯正」(洗脳?)を施され、場合によっては社会に復帰します。

そして「自分が生きる」ために、殺人犯という「タレント」になろうとさえする。。

 

ここから先は、自分の言葉に責任を負いかねるのですが、池田氏が関わった死刑囚よりも、獄中死を遂行した殺人犯の方が、「罪に向き合った」のではないかと、わたしには思えるのです。。

事故を風化させてはいけない

…そう、思います。人は痛ましい事故から教訓を得、社会を改善していく必要があります。

一方で、「事件を風化させてはいけない」のは、犯人が捕まっていないケースであって、もちろん和歌山毒物カレー事件で、容疑者が自らの犯行を認めていないことは、わたしも情報としては知っているのですが、容疑者家族の過酷な人生に思いを馳せつつも、こう思います。

容疑者のご家族にとっては「風化」させてはいけない事件かも知れませんが、被害者の方々にとっては、もう「事件に関わる情報の更新はやめてくれ!」この一念の方が、多数派では、ないでしょうか?どうでしょうか?

「冤罪」は根絶すべきですが、難しい問題です。同様に「人の道を外れた事件」も、冤罪以上に根絶を人は願いつつ、希望は見えません。。

…もう「運が悪かった」。そうとしか言えない。池田氏の言葉を借りれば「そんな人間は理解できない」のだから、たとえるならば天災のようなもの。犯人の言動が「人の体をなしていない」のであれば、再発防止策は犯人の人間性とは別のところで考えるべきではないでしょうか?

…少なくとも、ひとつの試みとして遺族に対し、「ご家族の命を奪ったのは人間ではない」という「諦め」の方法を提示することには、意味がありはないでしょうか?

 

少しお話が逸れますが「自動運転」も、将来的に同じ問題にぶつかるはずです。「レベル5」の自動運転車によって事故が起き人が亡くなったとき、その責任は誰が取るのか?

これは技術によって解決できる問題ではなく、社会が何を受け入れるか?という人類の変化に依存しています。

…もし、今のままの人類が、技術としての「完全な自動運転車」を手に入れてしまったならば、できることはひとつでしょう。

交通事故死が発生するたびに、その自動車メーカーのトップが責任を取って辞任すること。

「責任」だけは、「人間」にしか取れません。

不思議なことに人間社会では、誰かが「責任を負う」ことで、罪は相殺されます。死者は蘇らないし、時間も巻き戻らないのに。

しかしながら、人の道を踏み外した「無敵の人」に「責任を負う」ことを期待しても、多くの場合人類の品位を落とすだけです。

法治国家として、加害者の「人権」を守る必要がないとまでは言えませんが、もう、よくはないでしょうか?

「この犯人に、何かを期待するのはやめよう」

「天災で、寿命であの人はなくなったんだ」

…そういう慰めを、被害者家族に与えることができる世の中になっても。

そんな幻想を、せめてわたしは支援したいです。

 

…さて、残る「冤罪」についてですが、こちらはもう、答えは2,500年前に出ているかとおもわれます。

再登場いただきます。「悪法でも法は法」…そう、ヒーローたちのヒーローである「彼」です。

【池田晶子著:帰ってきたソクラテス】

…うっ。絶版ですか。。以下、わたしの主観いっぱいに、意訳させていただきます。

ソクラテス「そうか、冤罪か。運が悪かったね。『無敵の人』に殺されてしまった人たちと同様に。しかし、ぼく(岩波文庫に登場するソクラテスの一人称)はこう思うのだ。『悪法でも法は法』である、と。自分の生死よりも、社会秩序を優先させる方が『よく生きる』ことではないかね?」

 

冤罪と戦うことが、意味なきこととは思いません。なにを優先するかは人それぞれです。

…ただ、「冤罪」と「無敵の人による殺人事件」現時点で、そのどちらともそれほど近しいとは言えないわたしとしては、後者の問題により関心があって。。

特に遺族にとっての救いの可能性を、それが単なる絵空事、空虚な言葉遊びであっても、なんとか「人の道」の中に見出すことはできないのか?

そんな切ないきもちでおります。。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です