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韓国とは、どんなふうにお付き合いをしたらいいのかな?

ヘイトスピーチが受け入れられてしまった?

「嫌韓」に限らず、ヘイト系の活動にわたしは賛同しかねますが、どうにもお隣さんの文政権が、慰安婦問題を蒸し返して以降、それまではネット上の囁きも、「意志をもった嫌韓」と「冷静な穏健派」と大きく2派あったものが、「もうさすがに嫌韓でよかろう!」という空気がデフォルトになってしまっているのをかんじます。

すくなくとも、「我が国がこれ以上我慢する必要はない!」という国民感情が、支配的かと。…わたし自身も、そこはそうおもいますし。。

 

わたしごときが、何も言えることなどない難しい問題ですが、ふたつ、思いついたことがありますので、言論の自由ということで、この場で述べさせていただきたいとおもいます。

高度に政治的な問題は、局地的ご近所問題と等しい

これは砕いていえば、「正論とか理屈だけでは、解決できないんだよ!」という、外務省の職員さんたちの心の声と、翻訳できるかと思います。

近年、すごく分かりやすい事例が、あったと記憶しています。

アメリカでトランプ政権が発足するまで、我が国の安倍政権は「クリントン派」だったと言われています。が、選挙結果が明らかになった途端アメリカに「今から行くから!」お電話して首相が渡米し、トランプ大統領と「懇意になった」という。

たとえは悪いですけれども、これは真珠湾攻撃以来最大の、日本の対米国奇襲作戦だったのでは、ないでしょうか?

…そして、そんな傍目にも「節操のない」振る舞いを、「表向きの人格」として敢行した安倍首相は、それが作られたシナリオに従っただけだったとしても、すごく「おとな」で、国益に適った対応をされたと、個人的にはおもっています。

 

「隣国」と「お隣さん」は等しい、ということを主張したいわけですが、つまり、どうにもお付き合いが難しいお隣さんがいて、しかも「そろそろこちらが怒っていい」というきもちになっている状態で、わたしたち日本は、どういう態度を取り、どういう行動に、出るべきなのかな?

「韓国」を「お隣さん」と置き換えてイメージすれば、まだまだ「いや、今後のことを考えてまだ我慢しよう」という意見も、出てくるかな?と。

敬語は敬意ではなく恐怖心が発する

国家間の問題を、可能な限り卑近なおはなしにたとえた上で、僭越ながらむかしかじった言語学的なことと絡めて申しますと、この表題は、最初「??」とおもうのですが、冷静に考えると「なるほど!ほんとだ!」となる、いわゆる「真理」のひとつでして、確かわたしは、こちらの本で学びました。

こちら、相当にすごい本だとおもいます♪

…新書は、スポーツ選手とか棋士さんとか「勝負師」の方々関係の本が出てくるまでは、すごい本率が結構高かったです。そう、強く思います。今はもう、ハウツー本のひとつでしょうか。。

 

本題に戻りますが、たとえ話も簡単で、いきなりですが、「強盗に包丁を突きつけられてお金を要求される状況」を想像してみましょう。

  • 敬意を払う必要などまったくない強盗相手に、果たしてわたしたちは敬語ではなく、タメ口で話しかけることができるでしょうか?

…難しいとは、思われませんでしょうか?

もう、レポートを書くときに、敬体と常体どちらで統一すべきか?と悩んだ経験をお持ちの方も、多いかとおもいますが、上記のシチュエーションでは、人は選択の余地なく敬語を使うはずです。

  • 相手を怒らせてはまずい。

その一心が、普段最高にヒップでホップな人たちであろうとも、真摯で丁寧な口調と人格に変えてしまうのです。

いま「韓国」は日本に敬語をつかっているか?

「韓国」とカッコ書きにしたのは、たとえばわたしも以前は韓国に親しいお友だちもいましたし、「どの韓国か?」を、慎重すぎるほどに意識いただきたいからです。

文化的交流、個々人の信頼関係を、そこに含む必要はないとおもいます。…ありがちですが、お互いの国との個人的な関わりが薄い人ほど、「嫌韓」「嫌日」に靡きやすいですよね。要は「面と向き合っていない」。

 

そして、そういった「層」がどこにいるのか、それが己々の「人格」なのかどうかも定かではありませんが、「あいつらになど敬語を使う必要などない」と無意識にも感じている相手に対して、的確に「恫喝」する必要は、日本はあるのかな?

そうしないと国民の不満も、かなりいけない方向に、傾きはしないかな?そう、懸念しています。

 

ドラッカーは、21世紀の中国の成長を予見する中で、「しかし我々は、東洋の島国を忘れるわけにはいかない」とも、どこかで書き残しています。曰く、「日本は他国が1度も実現したことがない『奇跡』を2度、しかも1晩で成し遂げているから」と。それは、

  • 大政奉還
  • 第2次世界大戦の敗戦

だそうです。「1晩で国民の意識が180°変わった」という奇跡とのことです。

 

実際東アジア諸国が日本を「信用できない」口実として、こういう「変わり身の速さ」は挙げているかとおもいます。「いつまた侵略国家になるか分からない」と。

 

…で、そろそろ、そう思われても、別にいいのでは、ないでしょうか?

「やはり日本は怖い。信用できない」と、「韓国」の人たちが本当にそう考えているのであれば、上記の理屈から「畏敬」を欠いた対応などできません。「どうせ怒れないんだろう?」「あ、怒るの?いいのかな~?」と見下しているからこそ、「わがままな隣人」たり得ているわけです。

外交にしろご近所づきあいにしろ、「最低限のマナー」は学ぶべきです。そして「マナー」は教育ではなく、恐怖心によってしか身につけられないと、大野晋さんは言っているのだとおもいます。

 

アメリカにしても、マクドナルドが「支配の道具」的表現をされることもありますし、「侵略行為」は、別に(表向き)平和的に推し進めることは、十分に可能です。

「いつまた侵略国家になるか分からない」と「韓国」が日本を牽制する以上、「韓国」に「日本に対してせめて敬語を使わせる」程度には、「日本はキレると怖い国家」というプレッシャーを、利用する必要はあると、わたしはおもっていて、ただ、そのターゲットが「国家」なのか「政権」なのか「全韓国民」なのか「日本を身近に感じてはいない人たち」なのか、その選定を誤っては、いけないのかな?と。

経済制裁は、こんにちどの国家も比較的お気軽に発動しているみたいですし、「侵略国家!」と言われても、「いやいやいやいや」とか、「軍事活動なんかしてないもん♪」とか、表向き返せますし、その他諸国に「オレ、今からキレていいかな?」とひと言断ってから、よりターゲットが「畏怖を覚える」分野について、そうそう慎重にならずに、一度やってみましょうよ!

みたいな。。

 

無責任なひとり言ですけれども、互いの「本音」はどうあれ、早晩「韓国」に敬語を使わせる対応(それは、どう言葉を弄しても、「恫喝」でしかありえないです)をしないと、国家間にあるべき最低限の緊張関係が、もう、崩れてしまっているのは、事実でしょうから。

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