coto_ha, tabi, xa_shin

REN_NGE

仲良くなった中国の人から、何度かこんな質問をされたことがあります。

「ガチョウ」の「ガ」と「私が」の「ガ」はどうして同じ「ガ」と書くのか?と。

その場に日本人がいると、「同じ『ガ』であって別に使い分けはしていない」と答えるのですが、ローマ字で発音を表すと、「gachou」と「watashi[n]ga」になりますね。

音自体は確かに異なっていて、でも使っている本人たちは意識していなくって、かといって、「ga」と「nga」が不規則に使われるわけではなく、単語によって使い分けはほぼほぼはっきりしているという。。

無意識というか、そもそも「意識なんてあと付け」と、私自身は思ってはいるのですが、やっぱりコトバは不思議で、文法などでそれを構造化して捉えようとしても、するっとすり抜けてしまうところがあり、時代と共に移り変わり、決して理解しきれない。。

「人間性」とは、理屈で割り切れるもの以外の総体なのだと、小林秀雄が誰かの引用で書いていたようにおもいます。

かんがえて分からない、答えが出ないものに人は人間味を見い出し、理屈で割り切れてしまうと、「人間味がない」と感じるという。

人は合理性の中で生きていこうと試みながら、そこから逸脱するものを排除することは、たぶんできないしくみなのでしょう。

 

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