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サイコパス – 名指しできないコトバ

面白い考え方がございまして、それは固有名詞を突き詰めていくと、とある特定のコトバを除いてはすべてが「固有」を名指ししないことになってしまう、というものです。

例えば「小泉元首相」は、固有名詞と言えそうです。ですが今政治家として活躍している息子さんがいつか首相となり、そしてその立場を退いた場合には、このコトバは二人の人物を指す、つまり厳密な意味での「固有」名詞ではなくなってしまいます。

…という感じでどこどこまでも屁理屈を積み重ねて行けば、「小泉純一郎元首相(日本国第一期平成年号在任)」とかになってしまったり、それでも一意に特定できない「可能性」を考えるのがまた楽しかったり。。とか?

斯様な事態に陥ってしまった場合、バートランド・ラッセルという英国の学者の言い分では、英語で言う「it」とか「this」。日本語で言えば「それ」「これ」だけが真の固有名詞(論理的固有名)と言いうることになるそうです。…「あれ」(that)は、やや的が遠すぎるでしょうか?

 

掲題の話題に移りまして、サイコパスというコトバ。最近よく耳にします。そして、

  • こんな人物はサイコパスの可能性がある
  • 有名人では誰々がサイコパスの可能性がある
  • サイコパスは身の回りにも、100人に1人くらいの割合で存在する
  • サイコパスに育つ可能性は、幼児期の心拍数を検査することである程度診断可能

…など、決して私達の生活からかけ離れた、特殊な存在ではないと言いたげな情報が飛び交っています。

ただ、サイコパスに関する情報ですごく気になっていることがあります。それは、

  • 「サイコパスは身近にいる」という書き方をしつつも、その読み手は決してサイコパスではない前提の記事しか見当たらない

ということです。

「身近にいるサイコパスには注意をしましょう」「決して近づいていけません」という言い方。

ヘイトスピーチが数年前に注目されました。私も「日本人」という括りで、外国の方から嫌悪の念を向けられた経験はありますので、そういう悲しさは理解しているつもりですが、ヘイトスピーチは対象を嫌悪し、戦う姿勢を辞さないことに比較して、サイコパスに関する情報発信は常に注意喚起であり、サイコパス当人に対する名指しを、徹底的に回避する意図が見えます。これは何なのでしょうか?

実際「サイコパスはこんな人!」という情報に照らして、私の周囲にも「あの人はサイコパスかも?」という心当たりは数人おります。…でも確かに、彼ら彼女らに対して、「あなた、サイコパスじゃないの?」とは、直接言える気がしません。。

一方で「私自身がサイコパスではないのか?」というのも、「そうかも知れないし、そうではないかも知れない」としか感じようがなく。。

「名指ししない言い回し」の近しい例として、スーパーなどでの店内放送「安全にお買い物をしてただくために、防犯カメラを設置しています」があるかと思います。

  • 防犯カメラがあるから、万引きしたら捕まえますよ。でも、普通のお客様向けには「安全なお買い物」のためという言い方をする

…サイコパスのケースは、この「万引き犯」に対する以上の、名指し回避があるように感じます。そして紹介される対処法も、「関わらないこと」に終始しているような。。

 

社会的な存在として一番近しいイメージを持つのは、「マフィアのボス」だったり、しないでしょうか?そのとおり、「アンタッチャブル」。

発達障害というコトバも、一昔前の「アスペルガー症候群」を発端とし、色々な問題を孕みながらこのような表現にまでこなれて来た感じがします。(おそらくこれからも変化し続けるのでしょう)

まだまだ社会が、どう向き合えばよいかが分かっていない「サイコパス」という存在とコトバ。どんな風にこなれていくものか、強い関心を持って、風向きを感じていきたいと思っています。

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