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佐村河内守 ヒロシマ – それとは別に、マーラーの時代

いっとき「似非ベートーヴェン」として名を馳せてしまった佐村河内守。びっくりはしましたが、愛聴していたCD「交響曲一番 ヒロシマ」に対する評価というか印象は、特に変わりませんでした。

「一世紀前であればクラシックの作曲者になっていたはずの現代の才能は、今は映画音楽の世界にいる」と聞いたことがあります。「ヒロシマ」が比較されたマーラー、ショスタコーヴィチといった作曲家は、現代日本のクラシックCD収集家にとってどんな存在なのかというと、「19世紀以前の人であるモーツァルト、ベートーヴェンはもう古い。…だけれども、クラシック音楽の現在の姿である無調音楽にはどうにも馴染めない。なので、階調音楽の最終形に当たるマーラー、ショスタコーヴィチ、ブルックナーなどが今の流行り」という感じです。…バッハだけは、途中の時代を飛び越えて「全然古くない」という不思議があります。

日本ですと、「ベートーヴェンの交響曲9番『合唱』」が今でも一番有名だと思います。でも、20年前には確かに「合唱」が担っていた、紅白歌合戦で言うところの「大トリ」感(或いは山本譲二に於ける「みちのくひとり旅」感)は、既にマーラーの9番に完全に移行しているように感じます。

 

「ヒロシマ」に戻ります。この作品は前述のように、「現代に生まれるべきクラシック音楽」ではなく、「現代日本でよく聴かれる、20世紀前半のクラシック音楽」として世に出ました。

…決してモーツァルト、ベートヴェンなどの「ロマン派」の作風ではないにも関わらず、「現代のベートーヴェン」として売り込んだ佐村河内守の時代の読み方に、日本のクラシックCD収集家としては素直に感心します。(現代のマーラーを騙ることなく、でも作風はマーラー的、といった部分です)

交響曲というスタイルの音楽は、「交響曲の父ハイドン」を祖として、その後現代でいうところのデジタル家電、或いはビデオゲームのような進化を遂げたと言えます。

ハイドン自身は、100曲以上の交響曲を残しました。それが次の時代のモーツアルトになると、40曲前後。さらにベートヴェン以降、「交響曲を9作作るとその作曲家は死ぬ」という「呪い」のような言われ方をするように、数が減少して来ているのです。

これは、交響曲が複雑化し大作化したことが原因ですが、その背景には、「交響曲が書けなければ一流の作曲家とは呼べない」というような風潮があったようで、現代において、ビデオゲーム(機)がどんどん性能を向上させていっているような熱と労力とコストが、交響曲に注がれたと比喩できるでしょう。

 

「ヒロシマ」という作品そのもののレビューとしても、オーケストラの「荘厳な感じ」を活かしつつ、所々にキャッチーな旋律を交え、それがどう「ヒロシマ」なのかは、当時からまるで理解できてはいませんが、「十分に荘厳で録音時間も80分超えながら、CD一枚に収まる。そのために普通は四楽章構成であるところを第三楽章までしかない」という、「パッケージング」が、大変に気に入っています♪

有名な逸話ですが、今のCDが直径12センチで、録音時間が70分前後になったのは、カラヤンが「自分のベートーヴェン9番を一枚に収めて欲しい」と言ったからであり、元々は直径10センチで60分録音できればよい、という方針で開発されたという説があります。

…現代の「第九」であるマーラー9番は、残念ながら1枚のCDに収まっているものは非常に限られます。(一枚モノのオススメは、ブルーノ・ワルターが第一次世界大戦開始直前に、「超慌てて録った」ウィーンフィルとの演奏です。本当に全員が「焦って」演奏しており、これはカルロス・クライバーについて書くときに触れたいと思いますが、芸術性云々どころではなく、強烈なメッセージ性が宿った奇跡の名演です)

自宅のオーディオ装置で、CDで、何か交響曲が聴きたいな♪と思ったとき、ベートーヴェンは、全般的に短すぎます。モーツァルトに至っては、1枚に3曲とか収められてしまい、がっつりと1曲聴いた満足感には程遠いのです。かつ「純朴」に過ぎます。他方マーラーの音楽は、我が国の世界的指揮者小澤征爾がこう表現しています。「下りのエスカレーターを必死に駆け上り、上りきったときの変な感覚」と。

「いずれ私の時代が来る」と、マーラーは予言しましたが、このくらいのわけの分からなさが、現代にはマッチしているようで、次の世代の無調音楽は、今はまだ「わけが分からなさすぎる」のでしょう。

要は、専門的なことは置いておいて、マーラー的な音楽を、CD1枚で、十分な時間堪能できるところに、佐村河内守交響曲1番の商品価値があるのであり、それは(本当の作曲者である新垣隆ではなく)佐村河内守の、パッケージング能力に因るものだと、私は思っています。

本CDは、現在新品の入手は不可能な状況であるようですが、果たして、「商品」として再評価されるのが先か。プロデューサー佐村河内守がターゲットとした「時代」が終わるのが先か。傍観しながら、お部屋で聴ける贅沢を楽しみたいと思います♪

 

…但し、2作目のCDについては、自身が「全聾」を売り物にしようとしたことを、とある少女に対しても強要した、という記事も当時散見されました。

それは許されることでも、忘れ去られてよいことでもありません。

 

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